飯綱町公式アーカイブ連載 飯綱町広報紙 発行日/令和4年12月31日 / 広報いいづな(令和5年1月号・第206号)
🍎 りんごの魅力、掘り起こし
第13回

養蚕からりんご栽培へ

執筆:藤澤 充子(飯綱町集落支援員(りんごのまちづくり担当)) 飯綱町企画課・産業観光課 / いいづなアップルミュージアム
第13回 歴史とルーツ 飯綱町広報紙 発行日/令和4年12月31日

第13回養蚕からりんご栽培へ

執筆:藤澤 充子(飯綱町集落支援員(りんごのまちづくり担当))
広報いいづな(令和5年1月号・第206号)

かつて信州の農村を支えた養蚕業

明治5年(1872)、群馬県富岡市に官営の富岡製糸場が誕生し、近代絹産業の歴史は始まりました。明治7年(1874)には、長野市松代町に民間の蒸気製糸場、六工製糸場が創業しました。富岡製糸場で知識・技術を習得してきた*和田英が参画。繭煮鍋には松代焼の陶器が使われました。明治42年(1909)、日本の輸出生糸生産量は中国を抜き世界一となり、絹産業-蚕糸業は世界に冠たる日本の産業となりました。

大正13年(1924)には、長野県の輸出生糸生産量が国内トップとなり、県内の多くの農村では養蚕が最も重要な稼業になっていました。稲作には不向きで、経済的価値を生み出し得なかった山地を桑畑にし蚕を飼い、一家総出で懸命に養蚕業に取り組みました。

昭和4年赤塩/一家総出で蚕の上簇、合い間に一休み 拡大
昭和4年赤塩/一家総出で蚕の上簇、合い間に一休み
昭和32年倉井大原/機械による開墾に多くの見物人集まる 拡大
昭和32年倉井大原/機械による開墾に多くの見物人集まる

養蚕農家から果樹農家へ転換

昭和4年(1929)、ニューヨーク株式市場の株価大暴落に端を発した世界恐慌は、絹需要を急激に減退させ、日本の絹産業は大きな打撃を受けました。繭価格は暴落し、養蚕農家は経済的な窮地に立たされることに。

養蚕を拠り所としてきた農家は、経済的価値を失った桑畑を、別の代替となる農作物の畑に転換する必要に迫られ、北信はりんごの栽培畑に、南信ではりんごの他に日本ナシの栽培畑にも転作していきました。

飯綱町のりんご栽培は、既に明治末から大正初には始まっていたものの、未だ農業の基幹ではありませんでした。しかし、この蚕糸業の衰退という窮地は、戦後になってからは、りんごブームという追い風を背景に、農地改革・解放、現代的な農業技術の獲得等の要因も相まって、りんご栽培・産業の活況へと転じました。信州りんごは戦後から現在まで、県内各地の、そして飯綱町の米に並ぶ基幹農産物となったのです。

昭和44年国光の木の枝に、ふじの穂木を接いで品種更新 拡大
昭和44年国光の木の枝に、ふじの穂木を接いで品種更新

この土地はりんご栽培の好適地

戦後、国内の各産地はりんご景気に湧きました。国光・紅玉・印度等が主力の時代から、ふじ、つがる、王林等が主力の時代になり、昭和43年(1968)、旧三水村では全国の約1%にあたる9,560トンの生産量を記録。日本一のりんご村と注目されました。こうして、りんごは地域の誇れる農産物となり、飯綱町はりんご名産地の一つに数えられています。

かつて養蚕業の代替として、増殖・増産に注力してきた飯綱町のりんご栽培。栽培が可能な土地は他に数多くありますが、飯綱町は栽培上の好条件が見事に揃っており、年間積算日照量・年間降雨量・年間平均気温の数値は、高品質な果実の栽培条件に合致しています。この土地は栽培の好適地で、美味しいりんごの産地であることに違いありません。

令和4年色づくシナノスイートと稲刈りの終わった田んぼ 拡大
令和4年色づくシナノスイートと稲刈りの終わった田んぼ

註釈・専門用語の解説

* 和田英(わだ えい)
「富岡日記」の著者。松代出身の士族の娘で、富岡製糸場で製糸技術を習得し、帰郷後に六工社等で指導的役割を果たした。
* 上簇(じょうぞく)
蚕を「簇(まぶし)」と呼ばれる繭を作るための仕切りに入れる作業。

参考文献・参考資料

  • 『蚕糸王国長野県:新津新生』
  • 『長野県果樹史』
  • 『片倉工業株式会社HP』
  • 『岡谷蚕糸博物館HP』
  • 『長野県立歴史館まなび隊№4』
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