養蚕からりんご栽培へ
第13回養蚕からりんご栽培へ
かつて信州の農村を支えた養蚕業
明治5年(1872)、群馬県富岡市に官営の富岡製糸場が誕生し、近代絹産業の歴史は始まりました。明治7年(1874)には、長野市松代町に民間の蒸気製糸場、六工製糸場が創業しました。富岡製糸場で知識・技術を習得してきた*和田英が参画。繭煮鍋には松代焼の陶器が使われました。明治42年(1909)、日本の輸出生糸生産量は中国を抜き世界一となり、絹産業-蚕糸業は世界に冠たる日本の産業となりました。
大正13年(1924)には、長野県の輸出生糸生産量が国内トップとなり、県内の多くの農村では養蚕が最も重要な稼業になっていました。稲作には不向きで、経済的価値を生み出し得なかった山地を桑畑にし蚕を飼い、一家総出で懸命に養蚕業に取り組みました。
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養蚕農家から果樹農家へ転換
昭和4年(1929)、ニューヨーク株式市場の株価大暴落に端を発した世界恐慌は、絹需要を急激に減退させ、日本の絹産業は大きな打撃を受けました。繭価格は暴落し、養蚕農家は経済的な窮地に立たされることに。
養蚕を拠り所としてきた農家は、経済的価値を失った桑畑を、別の代替となる農作物の畑に転換する必要に迫られ、北信はりんごの栽培畑に、南信ではりんごの他に日本ナシの栽培畑にも転作していきました。
飯綱町のりんご栽培は、既に明治末から大正初には始まっていたものの、未だ農業の基幹ではありませんでした。しかし、この蚕糸業の衰退という窮地は、戦後になってからは、りんごブームという追い風を背景に、農地改革・解放、現代的な農業技術の獲得等の要因も相まって、りんご栽培・産業の活況へと転じました。信州りんごは戦後から現在まで、県内各地の、そして飯綱町の米に並ぶ基幹農産物となったのです。
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この土地はりんご栽培の好適地
戦後、国内の各産地はりんご景気に湧きました。国光・紅玉・印度等が主力の時代から、ふじ、つがる、王林等が主力の時代になり、昭和43年(1968)、旧三水村では全国の約1%にあたる9,560トンの生産量を記録。日本一のりんご村と注目されました。こうして、りんごは地域の誇れる農産物となり、飯綱町はりんご名産地の一つに数えられています。
かつて養蚕業の代替として、増殖・増産に注力してきた飯綱町のりんご栽培。栽培が可能な土地は他に数多くありますが、飯綱町は栽培上の好条件が見事に揃っており、年間積算日照量・年間降雨量・年間平均気温の数値は、高品質な果実の栽培条件に合致しています。この土地は栽培の好適地で、美味しいりんごの産地であることに違いありません。
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註釈・専門用語の解説
参考文献・参考資料
- 『蚕糸王国長野県:新津新生』
- 『長野県果樹史』
- 『片倉工業株式会社HP』
- 『岡谷蚕糸博物館HP』
- 『長野県立歴史館まなび隊№4』