飯綱町公式アーカイブ連載 飯綱町広報紙 発行日/令和6年5月31日 / 広報いいづな(令和6年6月号・第223号)
🍎 りんごの魅力、掘り起こし
第20回

果樹栽培のターニングポイント

執筆:藤澤 充子(飯綱町集落支援員(りんごのまちづくり担当)) 飯綱町企画課・産業観光課 / いいづなアップルミュージアム
第20回 栽培と農村文化 飯綱町広報紙 発行日/令和6年5月31日

第20回果樹栽培のターニングポイント

執筆:藤澤 充子(飯綱町集落支援員(りんごのまちづくり担当))
広報いいづな(令和6年6月号・第223号)

飯綱町の果樹栽培の始まりは

飯綱町の果樹栽培は、明治20年代に高坂地区の笠井源太夫が西洋種のりんごを植えたのが端緒とされます。明治30年代後半には柳原(長野市)の清水慶造が、平出地区の髻山麓を開墾し西洋種の葡萄・桃・りんご等の栽培を始め、それを清水と同郷の富岡助右衛門が拡張し経営を本格化しました。同じ頃、地元の高野関五郎らも果樹栽培を始めて、大正初め頃には平出地区で果樹栽培が広まっていました。旧三水村では倉井地区の高野伝太郎、関啓助らが大正初め頃に「*倭錦」を植えたことが知られています。

昭和50年代後半 矮化(わいか)栽培のりんご畑/倉井地区 拡大
昭和50年代後半 矮化(わいか)栽培のりんご畑/倉井地区

りんご栽培、昭和期に急拡大

昭和4(1929)年、ニューヨーク株式市場の株価大暴落に端を発した世界恐慌の影響で、絹需要は急激に減退し、蚕糸業が主要産業であった長野県下は経済的大打撃を受けました。

それまで、米作と養蚕を生業としてきた農家は、経済的価値を持たなくなった桑畑を別の農作物の畑に転換せざるを得ません。

北信ではりんごの栽培畑に、南信ではりんごや日本梨の栽培畑に徐々に転換していきました。この頃は未だ、りんご栽培は農業の中核ではありません。

しかし、蚕糸業の衰退という窮地は、りんご栽培・産業飛躍へのターニングポイントに。戦時中の作付統制令で一時停滞したりんご栽培ですが、終戦後以降には、りんご景気という追い風を背景に、農地改革を経て、農業技術も日々進歩し、養蚕業から転換した長野県下のりんご栽培・産業は活況へと転じていきました。

現在の矮化栽培のりんご畑/倉井地区 拡大
現在の矮化栽培のりんご畑/倉井地区

桃畑の景観が観光資源に

昭和4(1929)年以降、急激に経済不況に陥った国内では交通運輸業界でも輸送貨物や旅客が激減。そこで、鉄路利用の新たな活路を見出そうと、豊かな信州の自然を資源にした「観光産業」への手立てが模索されました。昭和8(1933)年春、招かれて来訪した岡田三郎助ら画家一行は、桃花が咲く果樹園(平出見晴地区)一帯あかたんかきょうが、丹い花が霞のごとくたなびく様に見えたことから、この地を「丹霞郷」と命名。一行を招聘した豊野町商工会や平出園芸組合・住民は一丸となってこの観光PRに努め、数年後には「桃花の名所」と言われるまでになりました。

しかし、昭和20年代以降の長野県下はりんご景気に沸き、やがて昭和40年代になると、桃花の名所でも桃畑からりんご畑への転作が増加しました。昭和43(1968)年には、農業構造改善事業で平出十文字地籍に桃畑は集積し、集団農園として再生されました。現在もなお、「丹霞郷」は多くの人々が訪れる「桃花の名所」です。同じ昭和43年は、旧三水村で国内りんご生産量の約1%に迫る9,560㌧を産出し、この地のりんご栽培の記憶に残る年でした。

現在の丹霞郷(たんかきょう)/遠く北信五岳を望む 拡大
現在の丹霞郷(たんかきょう)/遠く北信五岳を望む

註釈・専門用語の解説

* 倭錦(やまとにしき)
英名Ben Davis(ベン・デービス)。アメリカ原産で、長野県では「善光寺りんご」と呼ばれた歴史的品種。

参考文献・参考資料

  • 『長野県上水内郡誌現代編』
×